きものの成り立ちと現状

きものの成り立ち

きものの歴史は、縄文時代、一枚の布を巻きつけた巻布衣(かんぷい)、布の真ん中を切って頭を出す貫頭衣(かんとうい)に始まる。大陸文化の影響を受けて筒袖のものが現れ、平安時代には日本の気候風土に合わせ、身幅や袖幅がゆったりとした男性の束帯、女性の十二単が貴族の装束となる。武家社会に移ると、動きやすさが重視されて袖丈の短い小袖が主流となった。室町時代頃の小袖は、袖幅が狭く、お端折りのない実用的な衣服であった。桃山時代に豪壮華麗な文化を背景に小袖は派手になる。江戸前期には、描き絵染が生まれ、染織の各種技法が発達し、今日に通じる技法がほぼ確立された。また、江戸時代には、帯の結び方、髪形、小物の細工なども凝ったものが生み出されていった。
明治以降は、洋装が入ってきて、きものの柄も洋風のものが見られるようになった。生活習慣も西洋スタイルに次第に変化するなか、きものは大切な儀式やぜいたくを楽しむ象徴となっていった。
「きもの」という名称は、桃山時代に、小袖を「着るもの」、「きもの」と呼ぶ例が見られ、公家・武家階級が身に着けていた大きな袖口を持つ「大袖、広袖」が着られなくなると、明治時代には和装を表す言葉となった。今では「kimono」は、国際的に通用する言葉になっている。

現状と課題

戦後、たんすが空っぽの状態から人々はきものを買い求め、高度経済成長期とともに、きものの生産量は飛躍的に伸びた。しかし、昭和50年代に入ると、日常の生活風景からきもの姿が消え、大衆呉服の生産量が大幅に減少していった。やがて、好調を保っていた晴れ着や式服など高級呉服の売れ行きも、バブル崩壊後は減少していく。
消費の低迷による最も大きな課題は、生産地が打撃を受け、きもの文化を支えるものづくりの力が落ちていることである。生産量の減少は、きものづくりの根幹である分業制の維持を困難にし、後継者の不足により失われた技術もある。古い能装束などは二度と同様の品質で生産できないものがあるという。また、道具や原材料の製造事業者の廃業も広がっている。
一方、消費者においては、購入や着用することが少なくなるに伴い、品質や価格、場面に合わせたきものの着方、帯や小物の組み合わせなどの知識を習得する機会も減少し、わからないので敬遠するという悪循環に陥っている。そのため、きものと組み合わせた魅力的なサービスやイベントの展開など着用機会の創出とともに、きものの似合う場面とふさわしい着こなしの提案、製造工程の公開、購入後のサポートなど、より具体的でわかりやすい消費者への情報提供が必要となっている。

課題の解決に向けた取組

京都市では、行政ときもの関連業界が連携・協力し、きもの姿の方を対象としたコンサートなどのイベントの開催や、きもの展示会の実施、一定期間交通機関の利用や施設の入場が無料になるなど、きものの魅力をPRし、着用機会を創出する取組を積極的に推進している。また、きもの着用者には割引や粗品プレゼント等の特典が受けられたり、タクシーの料金が割引になるなど、民間企業における自主的な取組も行われている。
さらに、市立中学校における浴衣の着付け体験授業の実施や、小学生を対象とした「ジュニア京都検定」のテキストブックにおいて、きものを取り上げるなど、教育における取組の充実も図っている。

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