当初は二条柳馬場に開かれ、その後六条三筋町に移転し、さらに1641年に現在の地に移された。急な移転騒動が、当時の島原の乱に似ていたことから、島原と呼ばれたとも言われている。
遊宴だけでなく、和歌や俳諧などの文芸活動が盛んで、江戸中期には島原俳壇が形成されるほどの活況を呈した。1873年(明治6年)に開設された歌舞練場において「青柳踊」や「温習会」が上演され、京都の六花街の一つに数えられていた。また、太夫道中※1や「かしの式」※2などの独自の文化を今も継承している。
島原には、揚屋※3と置屋があり、揚屋は太夫や芸妓などをかかえず、置屋から太夫等を呼んで宴会を催していた。
揚屋であった角屋の建物は、揚屋建築唯一の遺構として、1952年(昭和27年)、国の重要文化財に指定。また、置屋の輪違屋は京都市指定文化財、東の玄関であった島原大門は京都市登録文化財である。その大門から続く島原の道が石畳風に整備され、歌や俳句を記した文芸碑とともに、まちの風情を醸し出している。
※1 「太夫」とは、傾城(けいせい 官許により宴席で歌舞音曲をもって接待する女性)の最高位。客層に公家が多かったため、歌舞音曲、茶道、華道のほか、和歌、俳諧、さらには、囲碁や双六などにも長けていた。
「太夫道中」とは、着飾った太夫が、禿(かむろ)、引船(ひきぶね)などの多くの付人を連れて、差しかけ傘で内八文字を踏みながら置屋から揚屋へ練り歩くこと。
※2 太夫を置屋から呼び、客に紹介する式。太夫が盛装を凝らして盃台の前に座り、盃を回すしぐさを見せている傍らで、仲居が太夫の名前を呼んで客に紹介する。
※3 現在の料理屋にあたり、二階へ客を揚げることから「揚屋」と呼ぶようになった。江戸中期以降、「揚屋」は、大座敷とそれに面した広庭、茶室、寺院の庫裏と同規模の台所を備える大宴会場へと発展し、明治以降、お茶屋業に編入された。
<島原の太夫が参加する伝統行事の具体例>
- 「宝鏡寺ひなまつり」(3月1日)
- 宝鏡寺で行われるひなまつりにおいて、太夫の奉納舞が披露される。
- 「吉野太夫花供養」(4月第2日曜日)
- 島原の名妓であった吉野太夫の墓がある常照寺で行われる。近くの源光庵から常照寺本堂まで太夫道中が行われる。
- 「夕霧供養」(11月第2日曜日)
- 島原から大阪の名妓となった夕霧太夫の墓がある清凉寺で行われる。本堂前から三門まで太夫道中が行われる。
島原は、1976年(昭和51年)、京都花街組合連合会を脱会した。置屋である輪違屋が1872年(明治5年)からお茶屋を兼業しており、現在島原でお茶屋営業を行っているのは輪違屋のみである。
太夫も数人となり、太夫文化の継承が課題となっている。