菓子の誕生とその変遷

古代の日本では、間食として食していた木の実や果物を総称して「くだもの」と呼び、漢字が伝来すると「菓子」あるいは「果子」の字があてられた(果物に関しては、のちに「木菓子」、現在では「水菓子」と呼ぶ)。また、『日本書紀』に登場する田道間守(たじまもり)(『古事記』では多遅摩毛理、多遅麻毛理)が「常世国(とこよのくに)[1]」から「非時香菓(ときじくのかくのこのみ)(橘)」を持ち帰ったことから、果物は菓子の最初とされるとともに、田道間守は菓祖神とされている。

なお、主食であった稲、粟、稗(ひえ)などは、保存するために乾燥させたり、灰汁(あく)を抜いて粥(かゆ)状にしたりして食していた。さらに、丸めて団子状にしたりすることで、今日の餅の原形となっていったと考えられる。

8世紀になると、遣唐使により唐から唐果子(からくだもの)8種と果餅(かへい)14種の唐菓子(とうがし)[2]が伝えられるが、現代から見れば菓子とは考えにくいようなものであった。もとは小麦粉を原料としたものであったが、日本で米粉へと変化し、現在でも神社や寺院の神饌(しんせん)や供饌(ぐせん)[3]として多く用いられている。また、唐菓子の一つである混飩(こんとん)[4]は、饂飩(うどん)の形となり、次第に菓子から離れていくことになる。索餅(さくへい)、麦縄(むぎなわ)[5]と呼ばれる唐菓子も、素麺(そうめん)のルーツであると思われる。

さらに、8世紀中期には鑑真によって砂糖や蜂蜜がもたらされ、9世紀に入ると空海によって煎餅の製法が伝えられたとされる。空海が唐から持ち帰った小豆の種子を、和三郎(わさぶろう)という菓子職人が嵯峨小倉山近辺で栽培し、砂糖を加え煮詰めて小倉餡(おぐらあん)を考案したとの伝承もある。

12世紀に入ると、禅とともに点心(てんしん)[6](羹(かん)[7]・饅(まん)・麺(めん)など)が伝えられ、禅宗の寺院を中心に茶礼と密接に結びつきながら、独自の喫茶文化が発展していった。なかでも、羊肉の羹(あつもの)であったと考えられる羊羹(ようかん)が小豆を用いたものとなり、14世紀半ばにもたらされた饅頭は、肉の代わりに豆類の餡を入れたものとして広まった。

15世紀から16世紀にかけて茶の湯が成立していくが、当時の茶会記によると、柿や栗などの果物、餅類、煮しめ、ふのやきなどが用いられていた。

16世紀、日本と交流のあったポルトガル、イスパニア、オランダなどから南蛮菓子(カステラ、マルボーロ、カルメラ、鶏卵そうめん[8]、カスドース[9]、金平糖(こんぺいとう)、有平糖(あるへいとう)[10]など)が伝来し、広まった。当時の日本では甘さの源である砂糖は貴重品であったが、九州地方から変革がもたらされ、平戸を中心に、新しいものへの探究心、砂糖の原料になるサトウキビの生産と流通の確保が後押しをし、現代に通じる甘い菓子へ発展していった。この時代になると、『洛中洛外図』[11](室町末~江戸初期)などに、茶とともに餅や団子を売る茶店が描かれるようになる。

17世紀になると、印刷文化が発達し、多様な出版物が多く刷られることにより、菓子の製法や名店・銘菓を紹介する書物も出回りはじめた。例えば、『京羽二重(きょうはぶたえ)』[12](1685年刊)には、京都の「菓子所」として23軒、「粽(ちまき)所」として2軒の店が、『男(なん)重宝記(ちょうほうき)』[13](1693年刊)には、250種弱の菓子名とその製法が、また、『都名所図会(みやこめいしょずえ)』[14]第3巻(1780年刊)には、方広寺の大仏殿建立(1595年)当時より売り始められた「大仏餅」が、それぞれ掲載されている。

18世紀以降、菓子は断然種類が豊富になり、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)や尾形光琳(おがたこうりん)を代表とする琳派の影響を受けることにより意匠が洗練され、菓銘(かめい)がつけられるようになったことで、さらに菓子文化が飛躍的に発展した。京都においては、宮中や公家衆、大名家のほか、各宗派の本山や門跡寺院などからの需要が多い環境のもとで独自の菓子文化が育まれた。京都の菓子は特産品となり、安永4(1775)年には、上菓子屋仲間(じょうがしやなかま)[15]が結成された。

明治に入り、京都は都が東京に移り活気を失っていたが、こうした中でも菓子屋は技術の継承と進歩改良に努め、全国最多の出品数と褒賞数を誇った明治28(1895)年の「第4回内国勧業博覧会」などを契機に、「京菓子」というブランドを確立させていった。また、砂糖の生産・輸入の増大に伴い、菓子は一般庶民にも広く普及しはじめた。さらに、チョコレートやビスケット、ケーキなどの洋菓子(フランス菓子など)が輸入されるようになり、洋菓子に対する概念として「和菓子」という言葉が生まれた。

戦後、百貨店や駅の売店などでも広く多様な菓子が販売されるようになるなか、京都の菓子屋は、昭和29(1954)年に京都で開催された第13回全国菓子大博覧会を成功させるなど、菓子文化の充実・発展に努めた。

菓子の作り手は、様々な菓子の種類にあわせて、京菓子、生菓子、半生菓子、焼菓子、煎餅、飴菓子、八ツ橋、豆菓子、米菓などに分かれて組合を設立し、技術研鑽や品質向上に取り組んでいる。加えて、菓子木型や金型[16]、焼印(やきいん)などの道具、諸材料の生産者(例:近江のもち米、丹波の大納言小豆、栗、寒天、吉野の葛(くず)、備中の白小豆)、菓子種(かしだね)[17]などの製造者、菓子を入れる箱屋など、多くの産業が京の菓子文化を支えている。

近年、健康志向の高まりにより、脂肪分が少なく他の菓子類に比べて低カロリーであることが和菓子の魅力として着目されるなど、消費者の価値観が多様化しているとともに、新たな着想の意匠が作られるなど菓子の多様化も進んでいる。

[1] 常世国-古代に信仰された、はるか海の彼方にあるとされる異世界

[2] 唐菓子-多くは、小麦粉などの生地で様々な形を作り、油で揚げたもの

[3] 神饌、供饌-神仏にお供えするもの

[4] 混飩-小麦粉の皮で餡を包んで煮たもの

[5] 索餅、麦縄-小麦粉と米粉を練り縄のように細長くねじって作る唐菓子

[6] 点心-食事の合間にとる間食

[7] 羹-肉や野菜等を入れた熱い吸い物

[8] 鶏卵そうめん-沸騰させた砂糖蜜に卵黄を糸状に落として作る菓子

[9] カスドース-短冊形のカステラを卵黄に浸し、糖蜜をかけ、砂糖をまぶしたもの

[10] 有平糖-砂糖に水飴を加えて煮詰め、冷やして引き伸ばし形を作る菓子

[11] 洛中洛外図-京都の市街地および郊外を俯瞰的に描いた都市風俗図

[12] 京羽二重-京都の観光案内書(水雲堂孤松子 著)

[13] 男重宝記-男性として心得ておくべき事柄を記した実用書(草田寸木子 著)

[14] 都名所図会-京都の神社仏閣や名所旧跡を紹介した地誌(秋里籬島、竹原春朝斎 著)

[15] 上菓子屋仲間-幕府の認可を得た248軒からなる同業組合で、白砂糖の使用を許可された。

[16] 菓子木型、金型-菓子を成型する際に用いる型

[17] 菓子種-もち米などで作った菓子の材料

(イメージ)

出典:「懐石と菓子」(資料改訂:有斐斎弘道館)

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