雅な菓子文化

受け継がれる知恵と技

京の菓子文化は、古来より外来文化の影響を受けつつ、宮廷文化への憧れを背景に宮廷や茶道の文化と結びつく中で熟成され、独自の文化として発展してきた。京都の和菓子の中でも、宮中に伝わる伝統的な行事の菓子や茶席菓子は芸術性や文学性に富んでいる。

茶席で用いられる主菓子(おもがし)[1]の意匠は、平安貴族の衣装に代表される「襲(かさ)ねの色目」などの多彩な色を用いながら、自然の姿を感性で削ぎ落とした形とするなど、抽象的な表現となることが多い。一方、干菓子(ひがし)[2]は具象的な表現となることが多い。

琳派の特徴とされる「自然を二次元に落とし込んだ平面の美」をさらに三次元の立体として意匠化する(「型」を作る)ことで、造形、色彩、文様などの表現方法がさらに多様になった(菓子例:「光琳梅(こうりんうめ)[3]」、「光琳菊(こうりんぎく)[4]」)。

また、菓銘(かめい)については、和歌や物語、花鳥風月、地名、年中行事、故事来歴、茶席の趣向にちなむ銘をつけることが多い。例えば、「唐衣(からころも)」という銘の「杜若(かきつばた)」を表した菓子は、『伊勢物語』[5]の「らころも つつなれにし ましあれば るばるきぬる びをしぞおもふ」という歌の頭の文字をつなげると「かきつはた」となることに由来する。

菓子の意匠や製法は、代々受け継がれてきた菓子屋の職人の知恵と技によって育まれてきた。また、店や作り手によって意匠や製法などが異なることもあり、同種の菓子の中にもその個性が光る。さらに、菓子屋は、職人の伝統を暖簾(のれん)分けした店にも引き継ぐなど、菓子文化の維持継承に尽力している。

現在は、暮れに見られる程度になったが、かつては、毎朝、菓子箱に菓子の見本を並べ、お得意先に注文を伺いにいく御用聞き(廻り)が習慣であったように、顧客本位の姿勢を基本とし、茶席等、様々な用途に応えるため、菓子屋には、茶道や古典芸能など、文化芸術に対する教養も求められる。

[1] 主菓子-茶席の濃茶に出す水分を多く含む菓子

[2] 干菓子-茶席の薄茶に出す水分の少ない乾いた菓子

[3] 光琳梅-柔らかなふくらみで梅を表した琳派風の意匠の菓子

[4] 光琳菊-丸の形に黄の点で菊を表した琳派風の意匠の菓子

[5] 伊勢物語-平安時代の歌物語(作者不詳)

茶席菓子

主菓子(着綿)

茶席においては、懐石の最後に主菓子(おもがし)、中立ち[1]をして濃茶、次に干菓子と薄茶をいただく。主菓子は饅頭などの蒸菓子、こなし[2]などの生菓子に銘をつけて用いる。干菓子は落雁(らくがん)、煎餅、有平糖(あるへいとう)、州浜(すはま)[3]などの菓子をいい、季節感をわかりやすく表現したものを用いる。主菓子は菓子椀[4]、縁高(ふちだか)[5]、銘々皿[6]、食籠(じきろう)[7]、菓子鉢[8]、干菓子は高杯(たかつき)[9]、盆などの菓子器で出される。菓子をのせて出す懐紙は、慶事は左を上に、弔事は右が上になるよう折るとされる。

また、煎茶の茶席においては、やや小ぶりの菓子が供される。

干菓子

茶席菓子は、出入りの菓子屋が亭主(茶席の主催者)の要望にあわせて道具立てなどを考え、時季や趣向を踏まえて創作し、数種の見本を用意する。菓子器や茶室との調和を重視し、また茶の美味しさを引き立てるものであることから、素材の味や香りを大切にしつつ、色彩や形状も繊細で奥ゆかしさが感じられる菓子が用いられる。

茶の文化が盛んな京都では、茶席菓子を求める客も多い。

[1] 中立ち-正式の茶事で、懐石のあと、客がいったん席を立って茶室の外に出ること

[2] こなし-こし餡に小麦粉等を混ぜて蒸し、練り上げた京都独特の菓子の生地又はその菓子

[3] 州浜-大豆を炒って挽いた州浜粉に砂糖と水飴を加えて練り上げた生地又はその菓子

[4] 菓子椀-正式な茶会で用いる蓋つきの器で、主に縁金や朱塗りのものが多い

[5] 縁高-重箱の形をした器

[6] 銘々皿-一人ずつに分けて菓子を出す小皿

[7] 食籠-客の人数分の菓子を盛る蓋つきの器

[8] 菓子鉢-客の人数分の菓子を盛る陶磁製の器

[9] 高杯-足のついた背の高い器

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