小野篁は、平安時代前期の公卿・文人で、参議という官位に就きました。身長は180センチを超える大男だったようで、政務だけでなく、和歌も漢詩も書もスポーツもすべての面で卓越した才能を発揮したことで有名です。
小倉百人一首に「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟」という小野篁の和歌が収録されています。
これは小野篁が838年に隠岐の島に流されるときに歌ったものだと言われています。なぜ流されたのでしょうか?理由は、篁が仮病を使って遣唐使を辞退したことを嵯峨上皇にとがめられたからです。経過は、遣唐大使・藤原常嗣の乗船する第一船が損傷して漏水したために、篁の乗る第二船を第一船とされたことに腹を立て仮病を使って辞退したというものです。しかも、仮病を使ってサボったことと併せて遣唐使批判まで漢詩に書いたものだから嵯峨上皇が激怒したのです。
しかし、小野篁は流されて1年半後には嵯峨上皇の許しを得て京都に帰ってきます。嵯峨上皇は篁の才能を高く評価していたようです。
このようなことがあったので、当時の人からは、小野篁は超人的な存在として畏敬の目で見られていたようです。それが後の世になって、小野篁は地獄とこの世を行き来し、夜は閻魔大王に仕えていたという噂が広がったのです。
平安時代末期には末法思想が広がり、人は死んだら地獄に行くしかないということが信じられるようになりました。そして地獄に行った人を救ってくれる地蔵菩薩信仰が広がりました。お地蔵さんは、地獄では閻魔大王に変身して、悪いことをしていない人を救ってくれるという信仰です。ということは、小野篁は地獄でお地蔵さんに出会うわけです。
そこで、小野篁は、地獄で出会ったお地蔵さんの姿を再現して六体の木造の地蔵菩薩像を作り、宇治の六地蔵にあるお寺に安置したという伝説が生まれました。六地蔵の地名はこれに由来します。その後、その六体のお地蔵さんを京都に出入りする街道沿いにあるお寺に分けて安置したという言い伝えが広がります。一節によれば平清盛がこれを行ったと言われています。お地蔵さんは、悪いものが京の都に入って来ないように守ってくれるという道祖神的な役割を期待されていたのです。こうしてその六体のお地蔵さんをお参りする風習が広がっていきます。これが8月22日・23日に今でも行われている六地蔵めぐりのはじまりです。
ちなみに、東山区の六道珍皇寺の庭の一角にある井戸が小野篁が地獄に行くときに使われたものだと伝えられています。六道珍皇寺のご住職によれば、朝になって小野篁が地獄から帰ってくるときの井戸は六道珍皇寺より少し北にあったそうです。これには異説もあって、当時嵯峨上皇が院政を行っていた嵯峨の地(大覚寺の近く)にあった福生寺というお寺の井戸からこの世に帰って来て、そのまま嵯峨上皇に使えていたとも言われています。
いずれにしても小野篁と地蔵信仰とは切っても切れない関係にあるのです。
鷲頭 雅浩(前京都市東山区長)