時代に応じた「工夫」が必要
2014年7月4日
西陣魚新 寺田 紳一
幣家の先祖は文化文政年間(1804年~1829年)、東山五条大黒町通で御所御用の酒造、醤油商 美濃屋伊三郎の次男で同業地の角屋新助(養子)に入った。江戸後期の弘化年間の方広寺大佛前各町の一斉退去の令により、二代目の時、染色の芸術・西陣の中心地、西陣の地で安政二年、料理屋を開業した。料理屋に転業するにあたり、おもてなしの心を常にと、屋号の角屋の角に心をつけ、「魚」とし新助の「新」とで「魚新」となりました。
料理の流儀には、四条流、四条園部流、四条園流、生間流、大草流、進士流など色々な流派がありますが、元は一つでありそのいずれもが、四条山陰郷を祖としています。各流派の包丁人は、宮中・幕府・宮家等に明治維新まで仕えたということです。
維新後、新しい時代にあたり、各包丁人は職を辞し、町居して謂われるままに料理屋の当主に、包丁の作法、儀式の切形、技術の献立、盛り付けの形等々の秘傳を相傳され、有職料理屋というものが形成されました。このような経過より、当店は、大正・昭和天皇の大札(即位大饗の宴)、平成二年十二月三日の平成天皇即位の京都御所での茶会、朝鮮王朝李王公家、北白川、閑院、伏見、山階等々の宮家の御用を賜り、当店名物として、醤油昆布だしに煮染した豆腐に若狭ぐじ(甘鯛)を、季節の野菜あんを掛けた「今出川豆腐」があります。閑院宮載仁親王殿下、ことのほかおぼしめしよく、一度ならず二度三度おかわりをなされたということです。
当店ではこの料理を「宮様豆腐」といって大切に守っております。「有職」という言葉が別に難しいことではなく、朝廷・公家の儀式行事行いなど古くからの慣例という学識から現代我々の生活の習慣という形で伝わっています。例えば「箸」というもの一つをとっても、「ハレの日」に「ハレの箸」として使ってきたのは箸の両口を口をつけて食べられる(中太両細)の両口箸を使います。一方を神様が使い、もう一方を人間が使う、神との共食に用いる箸を使います。今も昔も神事、儀式祝儀に「柳箸」を使います。柳は立春ののち、真っ先に芽を出すお芽出たい縁起木で、その上、白く清浄な強い木であることから格別に重用されているところも、有職から来ているものなのです。語源はともかく、日本人は古来より食を神聖なものしてとらえ、食に係わる箸も単なる道具としてではなく、神が宿るものとの考えがあり、それ故その扱いは信仰に近いものがあり、今での箸の上げ下げにも神経をつかい、使い方が子供の躾の第一歩と考えているのもうなずけます。
箸を大切に使う「精神」というものは古くから息づいてきた日本の「かたちの美」を感じさせます。私どもでは、その時期に最も豊潤なおいしい素材を使った料理を心掛けております。昔から日本料理とは天地と一体となって季(きせつ)の移り変わりをめでてまいりました。
よく京料理は、日本を代表する料理のように思われがちですが、そのこと自体は光栄ですが京料理も一地方料理にすぎません。そもそも地方料理とは、その土地で味わう料理のこと。京都以外の地域で京料理と銘打ってもそれは、本当の意味での料理ではないと思います。また最近では、京野菜の人気が高まり府産以外でも生産されるようになり、地元のものより早く出荷される為、いち早く料理に使っているところもありますが、これも本当の京料理とは言えません。地元で取れた旬のものを出すことが京料理の本来あるべき姿だと思います。はしりには、季の味覚を心待ちし、旬にはそれを喜び、名残りには心惜しんできました。
そのようなことを考えて、意識的に献立に組み入れ、緊張しながら、想いを込めるように努め、ご来店した皆様に楽しんで頂けるよう心掛けております。御所御用出入りの店のみ許された麻の白暖簾を掛けさせていただく意気と、商標の鯛の頭にある「鯛の鯛」を四方向い合せた意匠で、そこに老舗の心掛けを一子相伝の技と味を頑なに守り、今日に至っております。商品としての料理の安全性や信頼性が重視される時代、ブランドとしての見よくは消えないでしょうが、信頼を維持するためには、時代に応じた「工夫」が常に求められるのではないでしょうか。老舗の看板に寄りかかっているだけでは、いつか色褪せてしまいます。
当代八代目は、歴史と文化と食というものをあわせてご賞味、ご愛顧していただけるよう、京の食文化を守り続けていければと思います。